サンティ・クァットロ・コロナーティ教会 3


教皇シルヴェストロ1世により洗礼を受けるコンスタンティヌス。画面右側では皇帝の側近たちがその王冠と衣装を捧げ持っています。
伝説によれば、コンスタンティヌスは洗礼を受けると同時に疫病も治ったといいます。

現在では洗礼は水をおでこにかけるだけになっていますが、かなり時代が下るまで、このようにザブンと全身を洗礼桶につけて行われていました。

 

 

皇帝コンスタンティヌスがひざまずいて教皇シルヴェストロ1世に冠と儀式用の傘を捧げる場面。

このシーンは、ローマ帝国皇帝がその地上における世俗権力もすべて教皇庁に捧げた、つまり「教皇庁=カトリック教会はこの世におけるいかなる世俗権力よりも優位にある」と解釈されました。

そして、この解釈を正当化するものとして「ラテラーノ宮殿やローマ及びイタリア全土と帝国西部の支配権などを教皇に委ね、自分はコンスタンティノープルに引退する」という内容の『コンスタンティヌスの寄進状』という文書があり、それは中世におけるローマ教皇庁と神聖ローマ皇帝との間の長期に渡る権力争い、いわゆる「叙任権闘争」の根拠となりました。

 

教皇シルヴェストロ1世がコンスタンティヌスから奉献された冠をかぶり、儀式用の傘を掲げられながらコンスタンティヌスをお供に進む騎馬姿。

このシーンも教皇権の世俗権に対する優位性を表しています。
しかし『コンスタンティヌスの寄進状』は、8世紀半ばごろに当時の教皇庁によって捏造された偽文書だということが15世紀になって判明しています。

 
シルヴェストロがユダヤ教の生け贄として殺された牡牛を生き返らせるという奇跡をおこしている場面。
   

コンスタンティヌスの母ヘレナが、キリストが磔になった十字架を発見する場面。(註:このキリストの十字架に関する一連の逸話は『聖十字架伝説』をご覧ください。)コンスタンティヌスが洗礼を受けたのは、信心深かった母の影響もあると言われています。

ところでこの壁画の上の飾り帯の部分に、漏斗の形をした穴が空いているのがおわかりいただけると思います。これは、礼拝堂内の様子が階上の修道院の部屋にも聞こえるように空けたもので、いわゆる「拡声器」の役割を果たしていました。当時としては珍しい装置で、礼拝堂内に2ヶ所あります。

   
小高い丘の上になかば廃墟のようにそびえる中世の砦といった趣のこの教会。しかし、その一見武骨な外観とは対照的に、静かなキオストロとフレスコ画で埋め尽くされたロマネスクの礼拝堂というお宝を隠し持っているところからもローマの持つ歴史の奥深さを実感する教会です。

そしてこの教会を何世紀にも渡って、大々的に宣伝するでもなく、拝観料をいくらと定めるでもなく、「喜捨」という形で女子修道会がひっそりと守り続けてきたというところも、またいかにもローマらしい。
現代の女子修道会というと失礼ながら老齢化が進んでいるのでは、という先入観があったのですが、ここの教会のシスター方はどなたも若く美しく穏やかでにこやか、まさに聖母のようだったこともつけ加えておきましょう。

 

「サンティ・クアットロ・コロナーティ教会 2」

   

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