サン・クレメンテ教会 4


9世紀半ばに、ビザンチン(東ローマ)帝国皇帝のミカエル3世の要請にこたえて、テッサロニケ生まれの兄弟・聖キュリロスと聖メトデイウスがスラヴ各地で宣教をしました。

聖キュリロスは言語に長じていたので、「グラゴール文字」といわれるアルファベットをつくり、スラヴ語を典礼用語に採用して、スラヴ語訳の聖書の普及に貢献しました。
いわゆる「キリル文字」とは聖キュリロスの名前から取った言い方だそうです。

この2人がスラブ諸国の宣教中に、黒海付近で聖クレメンテの遺骸を発見し、867年にローマへと運び、聖遺物はサン・クレメンテ教会に埋葬されたのでした。

 

写真上の2人の聖人のモザイクは20世紀後半のきわめて新しいものですが、聖人ゆかりのブルガリアから贈られたもののようです。

写真右も新しいパネル。スラヴ諸国とこの教会との深いかかわりが垣間見られます。

   

教会の最深部、地下3階部分は紀元64年のネロ皇帝時代のローマの大火で焼失した建物の跡だというから驚きです。ローマ建築らしいレンガ積みの壁やアーチ、そしてコリント式の柱頭がそれを物語っています。 
   

一番奥には2世紀末ごろに建造されたミトラ神殿の跡が見られます。

ミトラ教は、紀元前4世紀ごろのアレクサンダー大王の帝国全体に広まっていた、小アジア起源の宗教です。
ミトラ神は、この世に救い(命、豊穣)をもたらすために太陽神アポロンの命を受けて岩から生まれた神とされています。「犠牲」「最後の晩餐」「昇天」など、キリスト教信仰を連想させるさまざまなエピソードがあるため、キリスト教との類似性が指摘されていますが、文献が伝わっていないために詳しいことはよくわからない謎の宗教です。

しかし、忠誠、服従、信頼、ミトラ神の敵への勝利の強調という部分が兵士たちの共感を呼び、ローマの軍団の中で特に支持を得ていました。2世紀末のコンモドゥス帝や3世紀初頭のディオクレティアヌス帝などにも庇護を受けましたが、4世紀以降はローマの歴史から姿を消します。

上の写真はミトラ教の神殿の中にある牡牛と戦うミトラ神の像を刻んだ祭壇です。残念ながら非常に内部が暗い上に、ここだけは撮影禁止だったのでこの写真は教会で販売していたガイドブックから載せました。 

   

神殿内部には直接は入れません。

撮影禁止なのにビデオを撮っている観光客の姿もありましたが、実際はこの廊下もかなり暗かったから、きちんと撮れたのかしら。

   
教会の最深部で激しく絶え間なくほとばしる地下水。1世紀の邸宅で使われてい飲料水がいまだに流れつづけています。

   
12世紀の教会の輝くばかりのモザイクは、本当にすばらしいです。各地でモザイクを見ましたが、葡萄のツルをモチーフにした生命の木のデザインも大変ユニークです。

しかしこのモザイクを堪能しただけでは、この教会の三分の一しか見ていないことになります。ローマの教会には、地下にローマ時代の遺跡が眠っていることが珍しくありませんが、それがさらに深く全部で三層の構造になっている教会はほかにはありません。

歴史が重層的に重なるローマそのもののこの教会、強力推奨スポットです。

   

「サン・クレメンテ教会 3」

   

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