サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会


この教会は、西ローマ帝国皇帝ヴァレンティアヌス3世の妻で、東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世と皇妃エウドチア・アウグスタの娘であるエウドッシア・リチニアによって5世紀に創建されました。
その後何度となく改修され、現在は正面扉を入った両側の壁だけがやたら古く、その他は18世紀初頭の新しい雰囲気でした。
   

伝説によれば、聖ペテロがエルサレムの獄中でつながれていた鎖と、マメルティーノの牢獄につながれていた鎖を、皇妃エウドチアがエルサレムへの旅の途中で信者からもらい受け、ローマにいる娘のエウドッシアへと送りました。(ええい、母娘の名前が酷似していてややこしい!)その後、娘のエウドッシアはこれを教皇レオ1世に献上しました。

伝説の鎖は今も主祭壇の下に納められ、毎年8月1日に信者に開帳されているとのことですが、今回は大聖年のおかげで特別公開されていました。

1500年以上前の古い鎖だということは確かなのでしょうが、「もともとは2本だった鎖が奇跡的に1本に結びついた」という話を聞いてしまうと、異教徒の管理人は・・・。

 

さて、この教会はペテロの鎖の他に、見逃してはならない目玉があります。それがこのミケランジェロ作のモーゼ像です。
ミケランジェロはルネッサンス期の教皇ユリウス2世の巨大な墓廟の制作を命じられたのですが、その途中で当の教皇はサン・ピエトロ大聖堂の再建の方に興味が移り、結果的には墓全体としての計画は頓挫してしまいました。実際に完成していたのは、このモーゼ像と2体の奴隷像のみで、奴隷像はフィレンツェのアッカデミア美術館とパリのルーブル美術館にあります。

旧約聖書の「出エジプト記」によると、イスラエルの民がエジプトから逃れて紅海を奇跡的に渡ったあと、指導者モーゼはシナイ山で神の「十戒」を授かりました。その間なかなかモーゼが山から下りてこなかったので、ふもとの人々は純金の若い雄牛を鋳造し、神と崇めて大騒ぎしていました。そのことを神から告げられて下山したモーゼは、偶像崇拝するイスラエルの民に激しく怒り、持っていた石板を投げつけて砕いた、と言われています。
この像はそのときの怒りに満ちたモーゼを表しているため、頭に2本の角が生えています。

ミケランジェロはこのモーゼ像を気に入っていたのですが、とある政府のお偉いさんが「この像は鼻のバランスが悪い」と文句を言った時、ミケランジェロは鑿を手に持ち、修正を加えるふりをして実際にはなにもしませんでした。それでもお偉いさんは「ああ、これで完璧だ」と満足した、という話も伝わっています。

またある時、ミケランジェロが像に向かって「話してみよ」と言ってみたのですが(当然のことながら)モーゼ像はなにも言わなかったので、思わず鑿を像に投げつけてしまった、ということがあったとか。鑿は右脚に当たりましたが、幸いにして傷跡はつかなかったそうです。
このエピソードは、作者自身ですら錯覚するほどの写実性を持っているということの証と言えるでしょう。

 

これまでローマの教会を巡った感じからして、4大聖堂は別として、普通の教会はどうせすいているだろう、とたかをくくっていたので、この人混みを見てびっくり。
人々の関心は、「聖ペテロの鎖」よりもミケランジェロのモーゼ像に集中していました。
   

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