サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 2


この紋章を見てピンと来たあなたは立派なボルジア・マニアですね。

15世紀のジュリアーノ・サンガッロ作の格天井には、寄進者の教皇アレッサンドロ6世の家紋の牡牛が刻まれています。

この天井の金箔は、コロンブスが新大陸から最初に運んできた金が使われている、と言われています。

 

教皇ニコラウス4世(在位1288−1292年)は創建当時の後陣を取り壊し、新しい後陣と翼廊を設置して教会を拡張しました。
そのときに5世紀の旧後陣で使われていたモザイクの断片を集めてヤーコポ・トッリッティが「聖母戴冠」をテーマに描いたのが、この新しい後陣のモザイク画です。

中央には玉座に座る神の子キリストが左手に書物を持ち、右手で隣りに座る聖母マリアに戴冠しています。周囲では9人の天使と聖ペテロ、聖パウロ、聖フランチェスコなど8人の聖人、鳩や孔雀などがこの様子を見守り、聖母の戴冠を祝福しています。

また、「聖母戴冠」のモザイクの下には、トッリッティによる聖母の一生の5つの場面が描かれています。

 

 

教会内にはたくさんの墓碑があります。左は枢機卿ロドリゲスの墓の天蓋部分のモザイク。墓本体にもみごとなコズマーティ様式の大理石細工が見られます。

そして右はバロックの巨匠ベルニーニの墓です。

   

お墓だけでなく、落書きもいっぱい。

この落書きはよく見るとなんと1850年のもの。

   

右手の側廊の一番奥にあるシスティーナ礼拝堂。
1587年にドメニコ・フォンターナが教皇シスト5世(在位1585−1590年)のために造ったので、「システィーナ礼拝堂」と呼ばれています。礼拝堂はクーポラを抱いたギリシャ十字形をしています。

ピウス5世(在位1566−1577)とシスト5世の墓が両側の壁にあり、中央には4人の天使が教会をかついでいる像があります。

この像の下の地下室には「馬小屋の地下礼拝堂」があり、東方三博士が生まれたばかりの幼子キリストを拝んでいる彫刻が刻まれています。

   

こちらは左手の側廊の一番奥にあるパオリーナ礼拝堂(またの名をボルゲーゼ礼拝堂)。
1611年にフラミニオ・ポンツィオがボルゲーゼ家出身の教皇パウロ5世(在位1605−1621年)のために造ったものです。

クーポラを抱いたギリシャ十字形はシスティーナ礼拝堂と同じですが、祭壇が正面の壁に設置されているところが違います。
内部の装飾もバロック様式らしく、キンキラキンの度合いがアップしているのがわかります。

写真では小さくてわかりにくいのですが、祭壇にある聖母子像のイコンは、画家にして医者であった福音書記者聖ルカの作品という言い伝えもありますが、実際のところは5世紀〜12世紀(ずいぶん年代の幅がありますが)のビザンチンの影響を受けたもののようです。

590年にローマにペストが流行ったとき、当時の教皇グレゴリウス1世(在位590−604年)がこのイコンを先頭に立ててサン・ピエトロ大聖堂まで行進をした途中、ハドリアヌス帝廟(現在のサンタンジェロ城)に大天使ミカエルが現れ、ペストがおさまった、と言われています。(「サンタンジェロ城」の項をご参照ください。)
以来、このイコンには厄よけの御利益があると信仰を集め、第二次世界大戦中も人々はここに集まってローマの無事を祈ったそうです。

この礼拝堂には教皇クレメンス8世(在位1592−1605年)とパウロ5世の墓が両側の壁にあります。

 

主祭壇の下にはキリストが生まれたときに置かれた「まぶねのかけら」の聖遺物が納められています。
世界中から大聖年の巡礼に訪れた修道女たちやたくさんの信者が列をなしてこの聖遺物を拝み、熱心に祈りを捧げていました。

確かにおそろしく古い木片と見受けられますが、やっぱり「本当?」と疑ってしまう管理人は所詮異教徒なのでした。(でも一応、聖母マリアへの祈りである「天使祝詞」を真面目に唱えてきたんですけど。)
   

「サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 1」

   

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