サンタ・マリア・イン・アラコエリ教会


カンピドーリオの丘の頂上の北の端に建つこの教会の起源は6世紀にまでさかのぼりますが、12世紀の「ローマの不思議」という書物にその伝説が書かれています。
アウグストゥス帝の目の前で突然天が開けて輝かしい光が注ぎ、腕に幼子を抱えた美しい聖母が祭壇の上に顕れ、「この乙女は人類の救い主を産むだろう。これが神の子の祭壇(アラ・コエリ)である。」という声が聞こえたというのです。

当初はベネディクト派の修道院が所有していましたが、13世紀にはフランチェスコ派に譲られ、そのときに大幅な改修が行われました。
正面の簡素なゴシック式のファサードは、124段の階段と共に見事な遠近法を成しています。

階段は1348年にペスト禍から町を救ってくれたことを感謝するために、聖母マリアに捧げるべくローマ市民の資金によって、ロレンツォ・ディ・シモーネ・アンドレオッツィによって作られました。
16世紀には近郊の農夫たちが自分たちの作った農作物をこの階段上で売る姿も見られたそうです。また17世紀には貧民たちが住みついてしまったので、階段の上から石を詰めた樽を転がして彼らを追い払ったとか、未婚女性が膝をつきながらこの階段を登ると良縁に恵まれるとか、いろいろなエピソードが伝わっています。

また、カンピドーリオ広場からの入り口には、13世紀のピエトロ・カッヴァリーニ工房による聖母子像のモザイクがあります。(写真右)

なお、管理人の記憶違いでなければ、江戸時代初期の仙台藩の遣欧使節・支倉常長らは、この教会を訪れているはずです。

   

教会内部は三廊式で、ローマ時代の神殿から持ってきた22本の柱と大きな高窓、床のコスマーティ模様によって作り出される、バジリカ様式の特徴がよくわかります。

天井は、マルカントニオ・コロンナが1571年にレパントの海戦でトルコ軍に勝利したことを記念したもので、教皇ピオ5世、グレゴリオ13世、ローマの元老院などの紋章を飾った金箔の格天井です。

 
右側廊の最初の礼拝堂には1486年にピントゥリッキオによって描かれた「シエナの聖ベるナルディーノの生涯」のフレスコ画があります。

左側の壁に聖人の埋葬の模様が描かれていますが、礼拝堂の外からの視線を計算に入れて、右側に傾いた遠近法が使われているのが特徴です。

   

左翼廊には、8本の柱に囲まれ小さなクーポラを抱く「聖ヘレナの礼拝堂」があります。
床面より低いところには、「アウグストゥス帝に顕れた聖母」の伝説を描いた13世紀のコスマーティ様式の祭壇が見えます。(写真右) 
   

この教会で一番有名なのは、この「サント・バンビーノ」と呼ばれる幼子キリストの像です。
15世紀にフランチェスコ派の修道士が、ゲッセマネの園から持ってきたオリーブの木で彫られたものと伝わっています。

この像は重病患者や死者を生き返らせる奇跡を行うと信じられており、患者の枕元にも運ばれたことがあるそうです。
奇跡が成されたときには唇が赤くなり、できなかったときには青くなる、と言われています。

この言い伝えのおかげで何度もこの像は盗まれ、今や本物なのかよくできたコピーなのかすらわからなくなっているようです。それでも「ローマの聖幼子さま」という宛名だけで奇跡を願う人たちの手紙が今も世界中から届いています。

このぐるぐる巻の幼子キリストの像を見て、フィリピンのセブ島でも同じように人々の信仰を集めている「サント・ニーニョ(スペイン語)」と言われる幼子キリストの像を見たことを思い出しました。でもそちらの方は熱帯のせいか、顔の表情も南国風で濃く、衣装も極彩色でキンキラキンのものを着ていました。

(管理人は異教徒なので遠慮なく言ってしまいますが)ちょっと不気味なお子さま人形です。病気の時にこんなのが枕元にあったら、かえって気が滅入るかも。ある意味一見の価値ありです。

   
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